平成21年5月4日、みどりの日。東京旅行【10】。

 大手門の枡形に入りました。ここは既に皇居の東御苑、かつての江戸城の内郭たる本城です。

 大手門の渡櫓門が、まず目に入ります。


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 梁行4間2尺(約7.8m)、桁行22間(約39.6m)。

 本城(本丸・二の丸・三の丸)では、二の丸の大手三の門(下乗門)に次ぐ規模です。

 枡形に入ってから、周囲に視線を転じます。


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 桔梗濠に面した塀を枡形の内側から撮影。

 この石の雁木(階段)、江戸期の軍学などでは批判的な意見が多かったとか。曰く、敵兵が塀を超えた時に、広く散開して自由に侵入できる。味方の兵が逃げ崩れようとした時に、一斉に逃げ散ってしまう、と。

 最近は、逆に高く評価されています。守備兵が一斉に配置に就く事が出来る、と。

 確かに、階段を限定しても守備兵が混雑するだけで、敵が入り込んだり、味方が逃げ崩れる時には、大して役に立つとも思えません。むしろ、敵が塀を超えないように迅速に味方が配置に就く方が重要です。

 この塀、一見すると狭間(さま)が切られていないように見えますが……。

 城外から撮影した写真と、城内から撮影した写真を掲載します。


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 狭間石と呼ばれる、石垣の天端石に銃眼を穿ったものです。

 『高山公言行録』では、藤堂高虎が考案し慶長19年(1614)からの普請から使用された、とあります。

 実際に徳川再建の大坂城で多用され、江戸城は天守以下に用いられていたそうです。

 但し、幕末の写真では二の丸などには確認できず、古い文献には作業用の穴だと誤った記述も見受けられる等、銃眼としての機能も等閑になっていたようです。天守台の場合は、再建された時に天端三尺部分の狭間石が積まずに略された、との記録もあります。
 
 追記すると、慶長14年(1609)に江戸城を訪れたスペインの前ルソン太守ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコが(余計な事ですが、長い名前です。ドン・ロドリゴとしか記憶していなかったので、資料を漁りました)スペイン本国に送った報告書で

「第一にして主要なる塀(石垣)は四角形の甚だ大きい切り石を、石灰または他の混和剤を用いずに積み上げたもので、その幅は甚だ広く、所々に砲を発する孔がある」

と記録されているので、ひょっとすると藤堂高虎の独創では無いのかもしれません。

 他に、岡山城でも確認できます。岡山城は天下普請ではなく、宇喜多・小早川・池田と徳川親藩の築城でも無いと思うのですが。池田家は徳川家の外戚ですが。


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 写真は、昨年の平成20年2月11日に岡山城の月見櫓(現存)周辺で撮影したものです。江戸城や再建大坂城を参考に地方の城郭でも採用されたのでしょうか?

 続きは、後日に。

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