平成21年5月4日、みどりの日。東京旅行【13】。

 皇居東御苑、三の丸。江戸城の時代には、現在は宮内庁病院などが存在して一般人が立ち入り禁止の区域に勘定所が置かれ、また廃止されていた期間の方が長いものの、時として三の丸御殿が造営されていました。

 現在の通路から、ちょうど北側の立ち入り禁止区画になります。通路の南側、皇宮警察の本部や旧枢密院の建物が存在する区画は、「コシカケ」と古絵図に記される建物が存在しました。

 最近は「供待(ともまち)」と記述される事の方が多いようです。

 コシカケを漢字に変換すると「腰掛け」です。設けられたのは、三の丸の大手門の前、二の丸の大手三の門の前、西の丸大手門の前、坂下門の前、平川門の前。

 何れも大名家や旗本が下馬、下乗して馬や乗り物の駕籠から降り、大勢の従者を残して登城する門です。ここに残される供侍が、長さ60間、幅7~8間の屋根と土間のある此処で主君を待っていたそうです。

 但し、式日の総登城ともなれば、中に入れるのは御三家や老中、若年寄の従者ぐらいで、他は土の上に下座敷と呼ばれる敷物を敷いて座ったり、挟み箱に腰掛けていたそうです。故に、供待の周囲は、建物がなく空き地になっているのか、とも思いました。他にも、日除け地としての意味もあったと思いますが。


 三の丸に入ると、直ぐに三の丸尚蔵館に辿り着きます。


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 入館無料。平成5年(1993)、昭和天皇崩御の後、皇室財産から国有財産に移された美術品を中心に、平成になり薨去された皇族方が遺愛の美術品も寄贈されています。

 但し。スペースに限りもある為、常に著名な美術品の全てが展示されている訳ではありません。私が訪れた時には、「国の花、華やぐ」という展示がされていました。


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 展示を拝見した後は、更に本丸を目指して進みます。

 現在、三の丸と二の丸の間は直通ですが、以前は蛤濠と呼ばれる水濠で区切られていました。大正8年(1919)に蛤濠の内桜田門(桔梗門)より北側が天神濠まで埋め立てられ、二の丸との間に造られた空間に、宮内省病院や車庫、馬場が設けられました。


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 故に、暑さから途中休憩してアイスを食べた三の丸休憩所も、それと向かい合うようにして通路の南側に存在する済寧館も、江戸時代は濠だった位置に存在する訳です。

 但し、二の丸と三の丸の境界は殆どの区画が一般人立ち入り禁止です。
 これは休憩所の近くで撮影しました。濠の跡にヒラドツツジなどの植栽が存在して、近づく事を拒んでいますが、それでも濠が存在すれば遠目でしか観察できない石垣を、間近に見る事が出来ます。


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 皇居の東御苑である、と言う事への畏れ多さと、江戸城に初めて訪れた興奮で、聊か冷静さを欠いていたようで、今おもえば見落としているものが少なくないです。

 その一つに、三の丸休憩所の写真を撮り忘れました。

 ですが、済寧館は撮影しました。ちょうど、剣道の稽古と思しき物音が盛況だったからでしょう。


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 これは、皇宮警察の武道場として昭和8年(1933)に竣工した銃剣道場です。この名を持つ建物としては三代目に当たるそうです。

 天皇陛下が武道の大会を天覧なされる時の為に、済寧館の道場には玉座が備えられているそうです。

 その事を最初に知ったのは、http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080807/imp0808071202000-n1.htm の記事によってですが。写真も掲載されています。


 ――話題を戻します。

 この大手三の門と呼ばれた高麗門の石垣跡。この手前は前述の如く大正時代までは蛤濠で、内追手橋と呼ばれる木橋が架けられていました。


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 内追手とは、元は大手門がこの位置で、現在の三の丸まで大名屋敷が存在した事に由来します。

 ここで、徳川御三家や創立当初の結城秀康の越前家など例外を除いて、諸大名は乗り物から降りる為、下乗橋とも呼ばれます。門そのものが、大手三の御門の他に下乗門とも呼ばれました。

 尤も、この枡形門を形成する渡櫓門を百人組門、高麗門を大手三の門とし、枡形門として一体化して下乗門と呼称する本もあります。

 次は、大手三の門跡を経て、二の丸へ。

 続きは、後日に。

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