平成21年5月4日、みどりの日。東京旅行【7】。

 日比谷通りを横断して、和田倉濠の前まで移動しました。


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 先程までの東京都の風景が、いきなり江戸の昔に回帰したようです。

 ――もっとも。

 本来の江戸時代であれば、ここには高麗門と櫓門を組み合わせた和田倉御門が存在したのですが。

 実際、関東大震災で倒壊するまでは、この場所には梁行4間、桁行20間の巨大な渡櫓門が現存していました。

 大震災で櫓門は倒壊して撤去され、江戸時代以来の木橋も破損してしまいました。

 現在の橋は、欄干が木製で擬宝珠も銅製ですが、橋桁などはコンクリート製だったと言う本を読んだ記憶があるのですが、今現在は手許に資料がなく、タイトルも思い出せません。

 尚、高麗門は東京大空襲も生き残り、現在は空襲で失われた半蔵門の代わりを勤めています。


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 ちなみに、この櫓台には和田倉櫓と呼ばれる櫓が存在しました。

 国立歴史民俗博物館の『江戸図屏風』には、外観二層で唐破風と一体の張り出す石落が東向きの櫓が描かれています。

 資料によると、この和田倉櫓は明暦3年(1657)の大火で焼失し、以降は再建されなかったようです。

 この西の丸下と呼ばれる区画は、それ以前は三の丸でもあったようです。時代と共に名称が変更されるのは珍しくない事で、現在は和田倉噴水公園と皇居前広場です。

 江戸城の櫓は、破風の部分を白漆喰ではなく、銅板に青海波紋を刻み、黒板包みにする破風妻銅板包みとしているのが特徴ですが、『見聞集』という記録によると、和田倉櫓の破風には金の飾り金具が施されていたそうです。

 二代将軍秀忠の指示で、江戸城の表玄関に近い和田倉櫓だけに他とは違いを出したかったのかもしれませんが、これを聞いた駿府の家康は夜中に飾り金具を撤去させたそうです。

 ……贅沢に対する戒めとして、飾り金具を撤去した跡は人々の関心を惹いたそうですが、息子の顔を土足で踏み様な行為ではあります。

 家康自身が、駿府城を始めとする徳川の天守や御殿の屋根を銅板屋根で葺かせましたが、これは防火・防弾・重量軽減の実用性が高いとはいえ、当時の価値観で言えば金銀でなくても金属≒カネで、金物(かなもの)で屋根を葺くと言うのは途轍もなく贅沢な事だったのに。
 金には銅板屋根のような実用性が無い、と言うのなら、名古屋城の金の鯱鉾はどうなるのでしょうね?

 ……いささか、脱線しすぎました。


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 パレスホテルは改装中でした。


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 その近くから、和田倉御門を振り返って、写真を撮影しました。


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 かつて、桔梗濠と和田倉濠は繋がっていましたが、今は道路が間を挟んでいます。


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 この後、大手門を目指します。

 続きは、後日に。

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